<写真>
<地図>
<碑文>
慶長五(一六〇〇)年関ヶ原の戦いで功績を挙げた戦国武将 堀尾吉晴の子 忠氏は出雲隠岐二十四万石を拝領 月山富田城に入った しかし 富田城は山 城で城下が狭く移城を決意 幕府に願い出た 床几山は東が広瀬往還につらなる 二人がこの地で床几に腰掛け話し合った ことからこの名がついた 眼下は意宇郡 北の島根郡にかけて川や沼地が多く 水運と防衛上の地形は抜群 城地については吉晴が「荒和井山」 忠氏が「亀 田山」と 考えを異にしたが 忠氏が慶長九年二十八歳の若さで急死したため その遺志をくんだ吉晴は亀田山に決め 慶長十二年築城を始めた 吉晴公は尾張国の生まれ天下統一を目指す信長 秀吉に仕えて数々の戦功を 挙げ三中老にも列した 普請もまた経験豊富で 城下町松江の礎を成した 慶長十六年 六十九歳で他界 松江開府の祖 吉晴公は 城山の松江神社に祀られ 毎年十一月三日にはここ 床几山に御神霊を遷座 湖都松江のさらなる発展を願う祈念と感謝の儀式が執り 行われる
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